書きたいこと書けないこと
これは良いものだ。と人に伝えたい? いや違うかな自分が自分で書いたもので楽しみたい? そんなこんなな思いが混ざってブログなる物を書いている*1わけだけど、どうにも上手く書けない現実がある。
その花びらにくちづけをなる同人ソフトがあって、これの感想を書こうと思っているのだけど、一向に書けない。何を伝えれば良いか分からない。自分が良いと思ったことを表現することが難しいなんて考えられない*2けれど、実際に表現ができないのだから仕方ないわな。
なんでも言葉によって表現することができることを言語力があるというらしい。何事にも力をつけて物差しにしてしまうのもどうかと思うけれども、検定までもあるようで、新しいというか新たに気付いた物差しなのだそうだ。
話は急に変わるかもしれないけど、以前マリみてなる小説が異常にはやっていた*3ころ、多分にもれず私もハマっていた*4のでした。そのころ2chにもハマっていたので、当然のことながらマリみてスレを毎日楽しく読んでいた。
マリみてスレにはいろいろな人がマリみてに対して感じたこと考えたことが投稿されていて、うんうんそうそうとか、なるほどそんな見かたもあるのかとか、いやいや分かってないなぁとか、他の人の意見は非常に面白かったわけです。気に入った商品の口コミを読んで楽しむ感覚ですね。
2chのスレを見だしてから2〜3冊目の新刊を読んでいたときにふと気付いた事があるんです。これやっぱりそうだよねぇ〜 そんなことを考えながら読んでいたのです。
自分の楽しみが他の人の感性に影響されている!
これでは自分自身の楽しみ方ができない! と思って、それ以来2chのスレは永久封印しました。
さて他人の感性に影響されることを嫌がったわけですけど、これがどう間違ったか感性に影響されることを嫌がるようになってしまったのですな。他人の感性だけでなく自分の感性にも影響されることを嫌がったということ。
どういうことかというと。イチゴは甘酸っぱいから美味しいとしましょう。でもイチゴが美味しいのは甘酸っぱいからだけではないのは自明です。でも甘酸っぱいから美味しいと感性を定義してしまうとそれ以外の大部分の感性は甘酸っぱいに内包されてしまいます。なにを言っているのか分からなくなってきたぞ。
感性を言葉によって明確に定義することによって、その感性に今度は引きずられるようになっていくみたいな。
ならば引きずられないように、明確な感性を多く増やせば良い話なのかも知れないけれど、結局をれって有限でしょ、ならば感性を明確に定義しなければ、感性に影響されることもなくなるよねってな感じ。さらに加えるならば、そもそも言葉自体が他人の感性の賜物でしょ*5
ここで話を戻して、言葉によって表現することができないですけど、なぜ表現できないかというと表現する言葉を知らないからなんですよ。思いつかないって言っても良いでしょうか。
先の同人ソフトでいうなら
- 原画担当のぺこさんの絵はカワイイ
- 女の子がきゃっきゃうふふするのは良い
- 優菜はエロ乙女
- 思いのほか短かった